保障よりも働くチャンスを求めるアビリティーズ運動
Believerとは?
福祉分野を中心に活動する「明日を信じて今日を前向きに生きる」ひとたち「Believer」を紹介するコーナー。
文●Believe Japan 写真●北川 泉
幼少の頃にポリオを患い、さまざまな困難を乗り越え、「保障よりも働くチャンスを」、「世の中に無能力者はいない、あるのは能力者だけだ」をスローガンに掲げ、心身に障がいのある人たちの自立生活と社会参加を実現するという「アビリティーズ運動」を日本で創始。長年にわたり懸命に取り組んできた伊東弘泰(いとう ひろやす)氏。「介護されるよりも、自らの判断と選択により、自分らしい生活や主体的な生き方の実現」を可能にするリハビリテーション機器や日常生活機器の開発、普及、さまざまなサービスの向上に、今なお尽力する氏にお話を伺う。
「アビリティーズ運動」とは、どのようにして出会われたのでしょうか?
私は一歳になる頃にポリオ(脊髄性小児マヒ)を患い、両脚がすっかりマヒしてしまいました。ですので、学生の頃から運動会や遠足には参加できず、また、就職活動においても「身体障がい者は採用しない」との理由で、面接も行なってもらえませんでした。当時は障がい者の自立など考えられない時代でしたが、私は、障がいのある方々にも、「全力で打ち込めて、自信をもって積極的な生き方ができる」、そんなチャンスこそが必要なのだと感じていました。そしていつしか、障がい者が中心になって働くことのできる職場について夢を描きはじめていました。
そんなとき、理想の会社を作るため、日々たくさんの方々に会い、ご協力をお願いして毎日奔走していると、テレビで、アメリカ・アビリティーズ社の活動を紹介するドキュメンタリー番組が放送されました。残念ながらその放送を見られませんでしたが、テレビ局に連絡先を問い合わせ、アビリティーズ社のヘンリー・ビスカルディ社長に手紙を書きました。
「心身に障がいがある方たちの自立と社会参加の実現」を目的とした、「障がい当事者による活動」を志すアビリティーズ運動は、1952年、ニューヨーク郊外の小さな空きガレージでスタートしました。そこはスタッフ全員が障がい者の会社で、生まれつき両脚がないビスカルディさんを中心に、4人合わせて満足な脚は1本、手は3本だけだったといいます。それが、設立から13年で、障がい者ばかりが500人も働く工場へと成長していました。そのビスカルディ氏から、アメリカ・アビリティーズ社の苦労と成功を記した分厚い資料と共に、激励の温かいメッセージが送られてきました。おかげで、「アメリカ人にできて、日本人にできないはずはない」と若い私は自らを奮い立たせ、「日本アビリティーズ」の創立というはっきりとした目標ができました。ビスカルディ氏は私に、アビリティーズ運動を日本で興すきっかけを与えてくださり、私は氏の後を追って今日までやってきました。
福祉機器事業を始められたきっかけを教えていただけますか?
1971年、私はアメリカ各地を訪問し、障がい者施設、障がい者が多く働いている企業や研究機関などを視察しました。当時、アメリカではすでに、障がい者の社会参加がめざましく進んでいました。頚椎損傷や筋ジストロフィーの患者さんが、電動車いすに酸素ボンベを積み、呼吸器を使いながらコンピュータープログラムの訓練を受けている姿、職場で元気に働いている姿を目の当たりにして驚きました。車いすに乗って、一般企業で管理者として活躍する方たちにも多く出会い、リフト付きのバンで、障がい者の方が自分で運転して通勤もしていました。みなさん自信に満ちた表情で仕事をされていたのが忘れられません。
日本帰国を前にしたある日の夕方、アビリティーズ社の玄関先でタクシーを待っていた私は、仕事を終えた電動車いすの女性を見かけました。そして、彼女が自分のクルマに乗り込み、電動車いすを工場に戻すのを手伝うことになりました。その、明るく溌剌としたしぐさと物言いに、私は何ともいえない清々しさを感じました。彼女の車いすを工場の玄関に移動させながら、「そうか、このひとの一日の生活はこの車いすによって支えられていたのだ」と思いました。アメリカでは早くも電動車いすをはじめ、さまざまなリハビリテーション機器や生活支援機器が使われていました。そうした機器が、障がいのある方々の社会復帰や自立した生活を可能にしているという事実をあらためて認識しました。
帰国して早速、持ち帰った車いすなどのカタログを携えて、医療機器メーカーに「障がい者の社会復帰のために、日本でもこういう機器を製造、販売してください」とお願いにまわりましたが、どこからも断られてしまいました。医療機器の商社も「レントゲンやベッドを買ってくれたら車いすを無償で寄付しています。病院ですら車いすは自前で買いませんよ」と言っていました。どこの会社も協力してくれません。当時の日本では、車いすはまだ、病院や建物の中で乗るものであって、自由に外を移動するという認識はありませんでした。「こうなったら自分がやらなければ」との想いが募ったわけです。
東京にある英国、米国の大使館に行き、イエローページで、車いすと各種リハビリ機器メーカーに片っ端しからコンタクトを取り、英・米メーカーとの取引も徐々にできいきました。そして日本にはまだない電動車いすをサンプルとして2台購入し、二、三日後には数寄屋橋から銀座四丁目を通って新橋まで、歩行者天国を6、7人で「車いすで通れる街づくりを」と書いたプラカードを掲げてデモ行進しました。幸いにしてその光景が翌日の新聞で紹介され、いきなり数台の注文が舞い込みました。「街づくり運動を一緒にやりたい」という障がいのある方たちからのお手紙もいただきました。アビリティーズのリハビリ機器の取り組みは、そんな慌ただしいなか始まりました。
アビリティーズでは、福祉機器事業のほかに、どのような活動をしているのでしょうか?
メインの福祉用具の販売とレンタルのほか、福祉施設や病院用のリハビリ・設備機器の販売、設置、修理、メンテナンス業務などを行なっています。また、高齢者や障がい者の住宅改修工事に関する相談や設計、施工、さらには老人ホームやサービス付き高齢者住宅、デイサービスなども運営しています。最近では都市再生機構(UR)の横浜市青葉区の奈良北団地では、みまもりサービスの運営も始めました。デイサービス、介護サービスなど福祉人材の育成のための講習会と、多岐にわたっています。
障がいのある方のための「リハビリツアー」という旅行プログラムも行なっており、大変好評です。障がいによるさまざまな不自由のなかで、「移動」が制限されるのは非常に深刻な問題です。それは精神面にも大きな影を落とします。ところが、適切な福祉機器や正しい知識と心を持ったボランティアの方々によるサポート、綿密な計画と万全の準備によって、快適な移動や楽しい旅行は十分に可能です。アビリティーズでは、1972年に身体に障がいのある二十代の若い方たち15人と、福祉分野で仕事をしている5人の、合わせて20人で、ハワイも含めたアメリカ、カナダをめぐる海外ツアーを行いました。以来、現在まで日本国内も含めて、数多くのツアーを企画しています。半身麻痺やリウマチなど、さまざまな障がいがあり、通院以外は自宅にこもりきりというひとが、ついには海外旅行にまで行ったりするのです。みなさん「一生の思い出ができた」と喜ばれ、旅から戻られると、多くの方に精神的にもリハビリにおいてもポジティブな変化が起きます。「旅は最高、最大のリハビリです」と、リハビリ医療の大家、大田仁史先生が言われましたが、まさにそのとおりだと思います。
伊東さんは「国際福祉機器展」の生みの親ですが、どのようにして始められたのでしょうか?
福祉機器事業を始めたといいましても、日本アビリティーズ協会の会員向けに機器の紹介や取次ぎを行うといったレベルでした。欧米の福祉先進諸国から機器をテスト的に輸入して試用実験を行ない、会員からの依頼があればそれを「実費プラス経費」くらいで提供しておりました。しかし、会員の方たちからの依頼は想像以上に早いペースで増え続け、機器に対する関心の高さがひしひしと伝わってきました。
そういう流れもあり、1974年の7月に我が国初となる福祉機器のイベント「リハビリ福祉機器展」を日本最初の超高層ビルの33階を1日だけ借りて開催しました。小雨降る天候にもかかわらず、3000人もの方に来場いただきました。会場はバリアフリーにはほど遠く、あちこちに段差があり、トイレも使えませんでしたが、ボランティアの方々の協力でなんとか対応できました。世界中から集められた珍しい福祉機器を前に、来場されたみなさんはとても驚いていました。その模様は翌日の朝刊各紙やNHKの朝のニュースでも報道され、問い合わせの電話や手紙が全国から寄せられることになりました。そして当時の厚生省からも「こういう展示会を福祉施設向けにもやってください」との依頼がありました。私は、それならば全社協(全国社会福祉協議会)さんにお願いして、もっと多くの方に見ていただけるイベントを開催していただこうと考え、厚生省の方と一緒にお願いに行きました。ところが断られてしまいました。リハビリ福祉機器展ですでに、先進の福祉機器に対する一般の方々の関心の高さを感じていました。それで、厚生省主催でアビリティーズが事務局を担当して実施することになりました。参加企業を六十社ほど集め、1974年11月、4日間にわたり東京・大手町で開催したのが「第一回 社会福祉施設のための近代化機器展」でした。それがいまや、ドイツのリハケア、アメリカのメッドトレードと並び、世界三大展示会のひとつとなった「国際福祉機器展」のはじまりです。思い返すと感慨深いものがありますね。
近年、国際福祉機器展は同様のイベントもできるほどの大変な盛況ですが、伊東さんは今日の状況をどのようにご覧になっていますか?
2000年の4月に公的介護保険制度がはじまりました。それまで国、県、市町村と社会福祉法人が行っていた高齢者の介護や福祉サービスは、一般企業や団体にも門戸が開かれました。それで事業者の数は一気に増加しました。我が国の高齢者人口は急激に増加し、介護のニーズがますます拡大するということで、これまで福祉に無関心だった企業がたくさん参入してきたわけです。それは大変よいことです。おかげで、これまでおざなりにされていた分野が脚光を浴び、一般の方々の意識も大きく変わりましたから。
ただ、最近の福祉機器展を見ていますと、「介護する側」のための機器ばかりが多くなっている印象を若干受けます。「楽な介護」ばかりにスポットを当てた製品が多いのです。それも、もちろん素晴らしいことです。しかし、アビリティーズのリハビリ機器、福祉用具は、障がいがあっても介護にできるだけ頼らず、自身の不自由をできるだけカバーして、「自立した生活」を目標に開発されています。私としては、さまざまな障がいを持たれる方が、あくまでも「自立生活」にこだわれるようサポートしてくれる機器が多くあってほしいと願っています。
アビリティーズの製品ですが、ラインアップは非常に多岐に渡ります。なかには需要が少ないものもあると思うのですが、コストについてはどのように考えられているのでしょうか?
まだ世の中にないもの、障がいのある方に必要な器具を作ることを心がけています。福祉機器というものは、マーケットは小さく、ユーザーニーズは多様です。しかし、本当に必要とされているものであれば、時間はかかっても必ずカタチになるものです。
また、私は、製品に「想い」を込めて、利用される方にお届けするということを信念としています。かなり前になりますが、お年寄りや障がいのある方には、安定性のあるシャワーチェア(入浴用のいす)が必要だと考えた私は、アメリカとイギリスで製造して、日本での販売を開始しました。ところが、非常に役立つものですぐに売れると思っていた予想とは裏腹に、何カ月経ってもまったく売れませんでした。大量の在庫は資金的にも重くのしかかっていました。
その対策に悩んでいたある晩、私は、クルマでかなり離れた場所にある会社の倉庫へと向かいました。暗い倉庫内には、大量のシャワーチェアの箱が山積みになって、どれもほこりをかぶっていました。その光景を目にすると、心にグッとこみあげてくるものがありました。ほこりを手で払いながら、私は「必要とするひとの役に立ってもらうために、こうしてたくさん作ったのに、こんなにほこりだらけで置かれていて申し訳ない。あなた方のことを知ってもらうためにあらためて一生懸命PRします。役立ってもらえるよう頑張るから、いま少し待っていてください。すみません」と思わず声を出していました。すると、不思議なもので数日後から注文が入り、あっという間に完売してしまいました。
私は、製品にも「命」があると考えています。そこには「役立つように」と願い開発したひとの想いや、製造に携わった人々の想いが集積されています。そして、製品自体も、そういう想いを受けて「役に立ちたい」と願い、エネルギーが生まれるのだと信じています。
第五回 伊東弘泰(いとう ひろやす)氏
特定非営利活動法人「日本アビリティーズ協会」会長。「アビリティーズ・ケアネット株式会社」代表取締役会長兼社長。特定非営利活動法人「福祉フォーラム・ジャパン」副会長。一般社団法人「障がい者の差別の禁止・解消を推進する全国ネットワーク」会長。公益社団法人「日本理学療法士協会」顧問。財団法人「日本リハビリテーション振興会 専門学校社会医学技術学院」評議員。これまでに内閣府障害者政策委員会差別禁止部会副会長や早稲田大学人間科学学術院客員教授を務める。
アビリティーズグループ
障がい者と高齢者の生活の問題を解決する世界の優れた製品の企画・調達・開発・販売・普及事業にはじまり、在宅での介護保険サービス、医療、福祉の相談やリハビリツアーなどの各種サービスを提供する。
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